【訃報】吉田昌郎元所長死去 福島第一原発事故で陣頭指揮

ゴシップ | 事故 | 原発 | 吉田昌郎 | 所長 | 放射能 | 東電 | 死去 | 福島 | 訃報
2013/7/09 23:12
知らなかった!0件
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • お気に入り

x240-i-h.jpg東京電力福島第一原発事故時の発電所長で、現場で復旧作業の指揮にあたった吉田昌郎さんが9日、食道がんで死去しました。58歳でした。

2010年6月から福島第一原発所長を務め、2011年3月の東日本大震災のときは免震重要棟に残って、テレビ電話を通じて本店との調整役を担いました。

東電上層部から1号機の原子炉を冷やす海水の注入停止を命じられたとき、テレビ会議では中断したように見せかけ、独自の判断で注水を続行しました。
この行動が、英断と評価されています。

吉田昌郎さんが注水停止を官邸の言うがままに実行していたら、東日本全体は深刻な長期間続く放射能汚染の地になったことでしょう。


2012年8月11日、福島市でシンポジウムが開かれました。

このイベントは、「二度と不幸な事故が起こらないため、全ての真実を語り、生涯をかけて福島の人たちのために活動したい」という吉田元所長の願いが通じたものです。

【イベントパンフレット】

20120811-2.jpg 20120811-4.jpg

吉田元所長のインタビューがビデオ上映されました。

福島第1原発:吉田前所長 ビデオでの発言全文

事故が起きた時、吉田元所長は作業員に退去を命じました。
福島第1原発に残ることが、「死」を意味すると原子力の専門家として熟知していた為です。
残る判断をするのならホワイトボードに自分の名前を書くようにいいました。

吉田元所長と残ってくれた方々は共に自らの名を「墓標」に刻む覚悟で最後まで残って戦ってくれました。

その後も、体調の急激な悪化によって緊急入院する間際まで、体調不良を現場の作業員たちに悟られないよう隠し続け、4号機の使用済み燃料プールも補強工事にも力を尽くしてくれました。


吉田元所長は、2010年4月22日に隠蔽せず「ありのままの真実」を伝えてもらうべく、青山繁晴氏を福島第一原発内に入れました。
そのときの映像がこちらです。

【福島第一原発内部映像 no.1】

【福島第一原発内部映像 no.2】

【福島第一原発内部映像 no.3】

【福島第一原発内部映像 no.4】

真実を伝えたい吉田元所長の想いは、「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日」を読めばよくわかります。

帯には「私はあの時、自分と一緒に"死んでくれる"人間の顔を思い浮かべていた」と、顔写真とともに書かれています。

20130710-00000002-jct_bw-000-1-view.jpg

また、青山繁晴氏の他にもう一人、フリージャーナリスト今西憲之氏が吉田元所長の案内で、事故後の原発敷地内に入って取材をしました。

「福島原発の真実 最高幹部の独白」今西憲之

福島原発の真実 最高幹部の独白

<内容>
「直ちに人体に影響はない」「原子炉は冷温停止状態になった」…。
「大本営発表」でしか知ることができなかった「未曽有の人災」。
福島第一原発最高幹部の一人が、初めて重い口を開いた。
手帳に残されたメモから当時をたどると、そこには「事故の真実」、そして、作業員たちの命をかけた戦いがあった。


東電本店のいうことを聞かず、勝手にジャーナリストを入れてしまう吉田元所長に武藤副社長が「更迭する」と言いはじめました。
武藤栄氏とは、「メルトダウンはない、注水はできていて安定状態」と、大惨事が迫っていることを3月12日にわかっていながら隠蔽を続けた組織人間です。

注水継続の吉田所長、処分も検討…東電副社長

「吉田所長は更迭に当たらない」と世論が騒いだことで、更迭されることなくすみました。

処分されるべきは吉田所長ではなく、斑目委員長と武藤副社長」

吉田元所長が、武藤副社長に更迭されていれば、4号機プールの補強工事は行なわれなかったのかもしれません。

日本を救ってくださって、ありがとうございました。
心よりご冥福をお祈りします。


知らなかった!0件
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • お気に入り
« 前の記事へ ホームに戻る 次の記事へ »
メンバーメニュー
サービス
その他
このページのTOPへ