【閲覧注意】本物のギロチン処刑動画

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2012/12/18 11:43
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b920b0da.jpg1939年6月17日、フランス北部ベルサイユで実際に行われたギロチン処刑の動画です。

5人の犠牲者をだした殺人鬼「オイゲン・ヴァイトマン」の処刑です。

これがフランスでは最後の公開処刑となりました。

動画は、部外者によって隠し撮りされたものです。



d0b01abe.jpgオイゲン・ヴァイトマン
Eugen Weidmann(フランス)


1937年暮れ、パリは連続殺人の脅威に怯えていた。

まず9月8日、ジョゼフ・クーフィというハイヤー運転手が、パリ=オルレアン街道沿いで血まみれになって発見された。
彼は「ディクソン」と名乗る自称アメリカ人を乗せた後、行方不明になっていた。

10月16日には、パリ郊外のヌイイ=シュル=セーヌで、ロジュ・ル・ブロンという若い興行師の遺体が発見された。
遺体は車の後部座席に布をかけられた状態で、墓地裏に放置されていた。

11月25日には、レイモン・ル・ソーブルという不動産業者が、「ショット」と名乗る客と共に訪れたサン・クルーの邸宅で血まみれになって発見された。
3人とも銃で首の後ろを撃たれていた。

冷酷非情な殺人鬼がパリ近郊をウロウロしていることは間違いない。
パリっ子たちは震え上がったが、警察は最後のケースで犯人の目星をつけていた。
事件のあったサン・クルーに住む「サワーブライ」と名乗る男だ。

12月8日、警官たちが彼の家に訪問すると「カールラー」と名乗る男が応対した。
この「カールラー」と名乗る男が「サワーブライ」であり「ディクソン」であり「ショット」であり、本名オイゲン・ヴァイトマンであることは云わずもがなである。
もはや云い逃れは出来ないと悟るやヴァイトマンは発砲、警官2名が負傷するも、敢えなくお縄となる。

いざ逮捕されるとヴァイトマンは素直に犯行を認め、他にも殺していることを自供した。
かつての相棒フリッツ・フロンマーと、ジェーン・ド・コーヴァン、ジェニンヌ・ケラーの3人である。

動機はすべてが金目当て。
その金額の少なさに刑事は耳を疑った。
ル・ブロンの5,000フランが最高額で、フロンマーは100フラン、ケラーに至ってはたったの50フランだったのだ。
こんなはした金で殺されたのでは堪らない。

1908年にフランクフルトで生まれたヴァイトマンは、まともな教育を受けていたにも拘らず、気がついたら詐欺師になっていた。
そして、刑務所の中で今の相棒たちと出会う。
内の1人が殺されたフロンマーだった。

シャバに出るとフランスに渡り、相棒たちと強盗を繰り返していた。
誘拐も企んでいたという。
そんな毎日の中で良心がどんどんと擦り減って、一連の犯行に及んだのである。

法廷でのヴァイトマンは、まるで人が変わったように懺悔した。
そして、上告することなく1939年6月17日、ギロチンによりに処刑された。
フランスでの最後の公開処刑だった。

殺人博物館より)

9ee2420b-s.jpg


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ギロチンは、斬首刑の執行具で、2本の柱の間に吊るした刃を落とし、柱の間に寝かせた人の首を切る装置です。

一見残酷なイメージですが、欧州ではむしろ人道的な死刑装置と位置づけられていました。
使用されなくなったのは比較的近年のことで、フランスでは死刑制度自体が廃止される1981年9月までギロチンが現役で稼動していたそうです。

フランスのギロチン

9d46d1a3-s.jpg
1792年型(左)、1872年型(右)


公開処刑に関しては、中世では公開される娯楽として扱われていました。
フランス革命時には、首切り役人による公開の斬首刑からギロチンに変更されたことにより多数行われていたそうです。

フランスでは1939年、このオイゲン・ヴァイトマンのギロチン処刑が最後の公開処刑となりました。
公開処刑は常にお祭り騒ぎで、ヴァイトマンの処刑では周囲の建物までが見物のため貸切られるありさまで、このような蛮行は国民道徳によくないとして、公開は停止されることになりました。

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